■大気汚染測定運動で得られたもの―子どもたちの育つ環境は改善したか?■
菊池和美
大気汚染測定運動で得られたもの―子どもたちの育つ環境は改善したか?(PDFファイル)
1.初めに
私は薬剤師として毎日大勢の患者さんと接しているが喘息やアトピー、鼻炎などのアレルギー疾患を患う患者さんが年々増えている事を日々痛感している。中でも喘息は命の危険を伴い、日常生活の質を低下させる大変深刻な疾患の一つである。またその治療費は大変高価で患者さんの負担は大きい。東京都では子供たちには治療費を助成する制度があるがそれも18歳になると打ち切られてしまっていた。だが最近18歳以上の大人の呼吸器疾患の患者さんにも医療費の助成制度が新設されたことは嬉しい話題である。この制度を実現させた陰には喘息患者さんが行った東京大気汚染裁判とそれを支えた東京各地の長い大気汚染測定運動がある。私自身も地域で長く大気汚染測定運動を続け、東京大気汚染公害裁判を傍聴し、集会やデモに参加して支援してきた。
地域での長い大気汚染調査運動を振り返り、そこで得たものと得られなかったもの、これからの課題についてこの場を借りてまとめてみたい。
2.大気汚染調査を始めたきっかけ
私が代表を務める市民団体では1988年から15年間にわたり稲城市内の空気中NO2の測定を行ってきた。測定のきっかけは会の活動目的が子供たちの成育環境の改善にあったことによる。現代の子供たちは果たして安心して暮らせる状態だろうか?
幼い子どもを持つ母親は常に子どもの安全に一番の注意を払う。よちよち歩きの子供が車の前に飛び出さないか、道路をまっすぐ歩いてくれるのか?また子どもを乗せて自転車で公園へ行きつく道のりでも、すぐ脇をすり抜ける車が怖い。子どもが小学校に行くようになると、毎日無事であるようにと祈るような気持ちで過ごす。昔のように家の前の道路で子どもたちが遊べる時代ではなくなった。子どもの遊び場環境は確実に少なくなっている。
また排ガスによって空気が汚れ、子どもの健康が損なわれることも心配だ。このような車社会を改善して子どもの育つ環境を良くしたいというのが大気測定運動を始めたきっかけだった。
当時空気中の二酸化窒素が自動車の排ガスの指標として注目をあび、その環境基準が0.02から0.04ppmに緩和されることに対しても環境の悪化が懸念されていた。
市内に広く呼びかけて測定運動を始め大勢の方が参加してくれた。
3.測定方法は
測定 方法 は夏冬 の年2 回、一 般市民に呼びかけて家の前に簡易測定 カプセ ルを24時間 置いてもらう。また、必ず毎年測定する定点を決めてそこは会員がカプセ ルをつける。特に幹線沿 いの 交差点 や逆に空気の汚れが少ないと思われる場 所は定 点として毎年測定した。この測定運動は「大気汚染測定運動東京連絡 会」という東京都全域を一 斉調査する団体に参加して行ったもので、標準値はその団体が決めたものに準じている。
さて、参加した市民の方のご意見を伺うと大気汚染の健康被害に苦しんでいる人が非常に 多い事がわかった。特に幹線 道路 沿いの方で調査に協力 してくれる方が多かった。
多い年には240か所、少ない年でも30か所あまりの地点を継続して測定した。
またちょうどこの15年間は私の住む稲城市が大きく変化した時期と重なったため、この間二酸化窒素測定運動の測定結果を活 用して行 政に様々な 要望 や陳情 を行った。基盤整備や幹線道の新設、区画整理事業等で町中に工事の絶えない年月だったので、私たちもその変貌に必死に対応した。15年間の長きにわたり使命感に燃えて活動してきたが、その結果何がわかり何が改善されたのだろうか?
参加者の声(1990年、2月会報より)
- 最近乗用車よりも大型トラックの方多い気がします。子どものことを考えると空気の汚れが心配です。
- 交通量がきわめて多い道路で日頃から気になっています。前回の測定でもかなり悪い結果でした。心配です。
- 幹線道路がそばにあるということで、ベランダの手すりが汚れ空気が悪いことを実感しています。健康のためにも改善されればと思います。
4.何が分かったか?
測定 結果を 幹線 道と一般道、道路外に分類してみると明らかに 違いが出て、幹線 道路では環境基準の0.06ppmを超える場 所も多かった。また夏よりも 冬の方が二酸化窒素濃度は高い 傾向 があった。道路に 面していない場所の二酸化窒素濃度は非常に低く、車の交通量 と二酸化窒素の関連性 が明確に表れた。年度別の濃度は 非常に ばらつきはあったが稲城市と三多摩 地区の汚染の濃度はほぼ似通った値で推移していた。また都心よりは低い傾向にあった。南山という稲城市の丘陵 地と大 丸交差点という 幹線 道路を年次別 に比較 するとその違いは 歴然 とした。幹線道路の交差点は非常に濃度が高く、丘陵地の濃度の数倍だった。緑地がいろいろな意味で空気を清浄 にすることが確認された。また稲城大橋開通 前の 鶴川海 道と 開通後 の交差点の測定でも道路の開通の影響が明確となった。
また健康被害と 住んでいる人の関連 も調べてみたところ、例数 は少なかったが幹線 道路沿いに 住む方 に健康が心配とする意見が多い傾向 があった。また実際に花粉症 や喘息などの症状を訴える方も多かった。
新設道路の影響
5.運動の成果としての大気汚染裁判
日本の著名 な大気汚染裁判は四日市喘息裁判に始まって現在の東京大気汚染公害裁判へ続いている。その特徴 は汚染 原因 が工場排ガスなど特定のものから車の排ガスなど不特 定多数 のものへ移行していることである。また被害者と加害者という対立構造がなくなっているともいえる。東京大気汚染公害裁判の原告団の多くは都内の喘息患者で、同じ大気汚染測定運動のもと地区は違ってもともに東京大気汚染測定を続けてきたメンバ ーであることから、私自身も原告団を応援する立場で何度も裁判を傍聴し支援してきた。残念ながら私たち市民の測定値が直接的に裁判に採用 されることはなかったが、測定運動が支援を広めるという意味では役立ったと感じている。
さて、裁判で得られたものは年齢の枠を超えて医療費の助成制度が確立したことや都内全域に住む人が助成対象となったことなど、これまでにない成果が得られたと思う。
実際に私自身が調剤を行っている薬局でも年々この制度を利用 する成人の患者さんが増えている。しかしその財源がどこから出されているか、またいつまで続けられるかなど、詳しいことは知らずに制度を利用 している患者さんや医療従事者も 多いだろう。さらにこの制度は5年間の時限制度であることもあまり知られていない。
6.裁判で本当に解決したのか?
大気汚染裁判では喘息患者の助成制度が確立し一応の決着はついたが、果たして、私たちが測定を始めた初めの目的である子供たちの育つ環境の改善はかなったのだろうか?
裁判で得られたものは被害の 救済 ではあるが、その根本 が解決 されたのではないと考える。制度を利用した人は年々増えているが、ぜんそく患者が減ったわけではない。また児童の事 故数 の推移 をみると、減少せ ず年齢別 にみると入学前の児童が多い事がわかる。
現在電 気自動車などエコカ ーが環境に優しいとして脚光 を浴びている。また二酸化炭素の排出 量の総量規 制が 国際 的な課題となっている。大気汚染問題はその原因対象物が次々に変化する。汚染物質をしらみつぶしにつ ぶすこと自体は良いことだと思う。しかし排ガスだけが自動車のもたらす問題ではない。私たちの目指したものは子供が安心して暮らせるまちづくりだった。子どもがのびのびと戸外で遊べる環境を確保してやりたい、そう願って始めた運動だった。その目的は残念ながら果たせていない、それどころか年々子供たちの遊ぶ姿が町から消えている。その大きな一因が自動車である。
しかし自動車問題の 解決 のむずかしさは自分も常に加害者でありうることである。誰かを一 方的に攻めるだけでは解決がない。
7.まちづくりの中で考える
大気汚染の測定運動と並行して、私たちは子どもの育つ環境を改善したいと幾つかの活動を行ってきた。車との関連では子どもが学校へ安全に通えるようにと、通学路の調査を行った。その結果、危険な幹線道路を渡って通学している例や、円滑な交通のために児童が約2分近く 信号待 ちをしている例、また一度で交差点 を渡れない 為途 中の 島で次の信号 を待つ事 例、十分 な信号待ちの空間がない事例など 多くの危険が明らかになった。
それを改善する一手段 として、右折左折車と 直進 者を 分離する「分離信号」や、一方通 行路の車のスピー ドを落とす「曲がった車道」を要望した。これは議会で採択 され一 部で実現化された。この2点に関しては、自動車を運転する側から 信号待ちが増えるとか、運転スピードが落ちるなどの 苦情 が来ることが予想 された。そこで稲城市担当課に実現後から現 在までの 交通 環境の変化や児童 の通学路安全性が向上したか、また一般市民の 反応 はどうかについて聞き取りを行った。
その結果、分離信号実施後、また 曲がった通学路の実施後、運転者からの苦情はなく、市民や学 童にも 好評 であり、自動車事故も皆無となっているとの回答を得た。
これはたとえ自動車交通 を遅延 させても、市民や稲城市が児童 の安全を最優先に選択したことが正しかったことを証明している。
果たして自動車利用 者は歩行者への安全確保の施策 についてどの程度の 理解 を持っているのだろうか?
8.大気汚染調査参加者に行った健康、車問題解決策アンケート
私たちは大気汚染調査に参加した方々に大気汚染による健康被害および車 問題解決 についてのアンケートを行った。その結果回答者自身が車を運転する大人であったにも関わらず、車 問題の解決には非常に積極的であった。つまり現在行われているさまざまな車 問題解決 のための施策 はもっと自信を持って進めるべきであるという結果を得た。
健康アンケート 20名
市民アンケート
解決方法はありますか?
自動車 利用 者は自動車に乗ること自体で歩行者に比べて 優位に立っている。早く目的地につける、重たいものをたくさん運べる、どこでも自由に動ける、事 故に遭遇 しても 被害が少ないなどなどである。この優位性を運転者は十分認 識していて、自分たち自身も少しの 不便をしても歩行者を尊重したいという 認識がある。歩行者と車利用 者はお互 いの 立場を 知り話し 合い、 特に自動車側は譲れる 点を譲ることが必要だ。
9.終わりに
子どもが戸外 で遊 ばなくなって久しい。子どもは遊びながら知力、体 力、社会 性を身につけてゆくものだ。部屋で一日ゲームをして過ごす子どもが増えている。もう一度子どもを外へ連れ出そう。子どもの遊び声が聞こえるまちを作るのは私たち大人の役目ではないだろうか。まもなく高齢化社会も到来する。子どもやお年寄りが安心して歩ける道、人と人が触れ合える空間、静かでのんびり過ごせるまち、そんな街はどうしたら作れるのだろうか?車社会のもたらした問題点はたくさんあるが、まずは身近な子どもの命と暮らしを大切にすることから行動を始めてはどうだろうか。