清水真哉
四年前の2006年、福岡市での飲酒運転による3児死亡事故以来、公職にある者が飲酒運転をしたら原則的に懲戒免職になるという基準が社会的に定着しつつありましたが、その基準を覆(くつがえ)す判決が最高裁判所で次々に確定しました。それを受け、自治体などでは処分の基準を見直す動きが相次いでいるということです(2010年6月27日毎日新聞)。酩酊した状態でハンドルを握ることは、路上で日本刀を振り回すに等しく、社会的にまったく許容できない行為です。飲酒運転による事故が絶えない以上、飲酒運転という元を絶つしかないのに、司法発の反動とも呼ぶべき事態が起きている訳です。
この五月には金沢地裁で、飲酒の上での死亡轢き逃げという案件に対して、自動車運転過失致死と道交法違反により、懲役2年6月という極めて軽微な判決が出ました。人一人殺していながら三年未満とは驚くべき軽さです。裁判官は「全く酌量の余地はない」としているのに、この甘さです。飲酒+死亡事故+轢き逃げであり、社会通念からすると、他の犯罪と比較して十年は当然です。求刑自体がわずか4年に過ぎず、検察の段階から異常なのです。
六月には今度は横浜地裁で、飲酒運転をして居酒屋に突っ込み、客を一名死亡させ、二名に重症を負わせた男に、自動車運転過失致死傷罪で懲役5年の判決が下りました。この場合も裁判官は「被害者の救護に努めた様子もなく、酌むべき点は見いだしがたい」と述べており、それなりに厳しい判断をしたつもりでこの数字です。懲役6年の求刑が判決では懲役5年に減らされている理由も、司法の悪しき慣例によるものとしか考えられません。
これだけ悪質な事例であり、それを司法も認めていながら危険運転致死傷罪が適用されないとはまったく許しがたいことです。
仮に自動車運転過失致死傷罪を適用するにしても、業務上過失致死傷罪は最高刑が懲役5年で軽いため、最高刑懲役7年の自動車運転過失致死傷罪が設けられたのに、これではその意味さえありません。あまりに遺族や国民を甘く見ていると言わざるを得ません。
被害者や遺族の努力によるこれまでの立法段階での成果が、司法の領域で骨抜きにされていると言ってもよい状況です。
裁判員制度の導入以降、性犯罪などではこれまでの量刑の傾向よりも重い判決が出てきているようです。交通事案でも一般市民の目でこれまでの量刑のあり方を考え直してもらいたいものですが、ところが交通犯罪の場合、危険運転致死罪でない限り裁判員裁判の対象となりません。
そして交通犯罪者達は、市原や加古川の、「開放的」で「楽とも感じてしまう」(3月9日読売新聞)交通刑務所で刑期を過ごすことになります。
轢き逃げ事件の取り扱いを含め、交通犯罪を取り扱う法制度、司法制度には、そこに関わる人たちの考え方に至るまで、まだまだ改めなくてはならないことが多いようです。
(2010年9月発行 会報第61号)