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日本の電気エネルギー源

投稿日:2011年6月30日 更新日:

清水真哉

 福島第一原子力発電所で、恐れていたというよりは、油断していた事故が四機、同時に発生した。
 暗い東京の街なかで、人々はいままでよりは真剣にエネルギーの問題を考えるようになったかもしれない。
 しかし、世界のエネルギー問題の本当の厳しさを、人々がどこまで認識しているのか、まだまだ疑わしい。
 クルマの生産、利用の両面でエネルギーを大量消費しているクルマ社会にとっても根底的であるこの問題について、少しく言葉を費やさせて頂きたい。

1)

 今回の福島第一の事故で、東京電力には原発事故に自力で対処する能力がないことが明らかとなったのに、柏崎刈羽を動かすことをいまだに許しているのは、原発漬けになった日本国民が、放射能の恐怖と不安に駆られながらも、なお原発の真の意味を直視できるところにまで至っていないことを示している。
 今回の原発事故では、農地が使えなくなるという被害が現実のものとなったが、日本の穀倉地帯である新潟県で米が作れなくなったら、日本人はいったい何を食べていけばよいのであろうか。
 1993年の冷害の際に日本はタイから米を緊急輸入したが、かつて途上国と呼ばれた国々の経済発展により高騰した国際的な食糧の市況は、金にものを言わせた傲慢とさえ思える買い付けをもはや日本に許さなくなっている。日本人には現実に飢餓の危険があるのである。しかも放射能で汚染された農地が使えなくなるのは数十年、数百年の単位で、冷害の比ではない。
 日本の原発は大都市を避けて立地を選んでいるようだが、狭い日本では山林を除き使えるだけの土地を農地化してきており、都市部でなければまず農業を営んでいる。また冷却水の都合で海岸沿いに建設してきたため、日本の原発は必然的に漁場に近い。
 人命に対する直接の危険にとどまらず、食糧生産という生命への間接的な影響からしても、すべての原発を直ちに止めるということは、文明の叡智の命ずるところである。
 これまで何千年、何万年も我々の祖先が暮らしてきて、これから何千年、何万年も我々の子孫が暮らしていく大地を、束の間の快適さのために人が住めない土地にしてしまうことの罪深さを自覚しようとしない今の日本人は、永遠に呪われて然るべきである。
 そして原発を動かしてはならない究極の根拠は、後世の人間に押し付けられる、始末することの出来ない放射性廃棄物のためである。

2)

 今回の震災により福島にある原発が稼動できなくなったために、東京電力は火力発電所を多く再起動させようとしており、計画停電が回避されることで東京電力管内の住民は安堵の胸を撫で下ろしているようである。
 しかし本当の問題はこれからである。原発を停止し、火力発電の比率が高まれば、日本の電気料金は資源価格の変動をもっと敏感に反映するようになるであろう。高い高い電気料金を払いながら、化石燃料のありがたさを痛感することになるに違いない。
 そうすると、恐怖も喉元を過ぎ、原発を動かせという世論がまた強くなっていくことを私は予測する。
 化石燃料はただたんに高価であるだけでなく、加速度的に騰貴していくであろう。福島での事故以来の世界的な脱原発の流れが、高騰の大きな要因となっていくであろう。
 人々は昨年のメキシコ湾での原油流出事故を忘れてはならない。石油は容易に採掘できるものは大抵、手をつけてしまい、新たに掘れるのは、海底深くなどの採掘が極めて困難なものばかりだという教訓をまざまざと見せつけてくれたのである。
 日本が主たるエネルギー源を石炭から石油に切り替えたのは、まだ四、五十年前のことに過ぎない。それがもう、石油時代の先が見え始めているのである。そして石油の次に来るものは何もない。
 人々は今の文明は、科学技術、人間の叡智の賜物と思っているかも知れないが、実質は、我々が享受している豊かさは、ひとえに石油という宝物のエネルギー効率の高さがもたらす生産性の高さの恩恵なのである。
 石油が無くなれば、現在の文明世界の生活水準は急速に低下していくであろう。そのとき我々は、今の豊かさは、科学技術の成果ではなく、石油が生み出していただけだということを身に沁みて思い知るであろう。
 化石資源の節約は、現在生きている世代に常に課せられ続ける戒律であり、原発を止めたからといって、その穴埋めを貴重な化石燃料によってすることは許されない。

3)

 自然エネルギーなどに期待を寄せる向きがあるようだが、過大な夢を抱くのは止めた方がよかろう。
 何の問題もなく、発電に潤沢に利用できるエネルギー源があれば、電力会社が自らの利益のためにとっくに開発しているはずである。
 補助金がなくては投資する意欲が起きないような自然エネルギーは、実際たいしたエネルギー効率がないのである。
 原発にしてもそうであるが、代替エネルギーと呼ばれているもののすべては、石油が果たしている役割の、発電部分の代替しかできない。
 考えてみて欲しい。電気で飛行機は飛ばない。船も動かない。重機も動かない。石油がなくては原発の建設も、使用済み放射性廃棄物の管理も出来ないのである。
 太陽光にせよ、バイオマスにせよ、それは一時の、あるいは一年間の太陽光の集積に過ぎない。化石資源とは何万年にもわたる有機物の蓄積なのである。その濃縮度に天地の違いがある理由とともに、なぜそれが人類に与えられた一回きりのものであるかも、その由来を考えればたちどころに理解できるはずである。
 自然エネルギーは、無理なく利用できるものは利用していけばよいが、わずかな電力のために自然を破壊する、自然破壊エネルギーとならないよう、戒めてもらいたい。

4)

 結局のところ、天は我々にそれほどのエネルギー資源を与えてくれてはいないのである。
 いや本当は、石炭や石油や天然ガスなど、この世の宝と呼ぶべきものを、大量に恵んでくれたはずだった。しかし人類はそれを、無益なことのために費やし続け、今は宝の壷の底を、首を突っ込んで覗き込んでいる有り様である。石油を利用するだけの賢さはあったが、その本当の希少性を知り、その値打ちに見合ったところにだけ使うという分別までは持ち合わせない、結局のところ人類とは愚かな生き物であったとは、既に見えている結論である。
 原発を直ちに停止しろと主張すると、では電気はどうする、代替エネルギー源をまず示せとのたまう電気ボケ人間が日本には多すぎるが、国にも電力会社にも電力を安定供給する責任などはなく、国民は限られた電気を融通しあうしかない。
 徹底した省エネルギー以外には、我々には生きていく道はなく、我々は今あるものを、爪に火を灯すように大切に使っていく他ないのである。
 それを生活水準の低下と感じる人間は多いであろうが、今の日本人がどれほどエネルギーを浪費しているか、真剣に見つめ直すべきである。その気違い沙汰は便器を電気を使って暖めるといったところにまで到ってしまっているのである。
 原子力発電という行ってはいけないやり方で電気を作ることを止めれば、人々はきっとそれに合わせた電気の使い方をするものである。使い始めたのが安易な気持ちであったのと同じように、止める方もあっさりと止めていくであろう。
 我々は勇気をもって脱原発への道を歩み出していきたいものである。

(会報『クルマ社会を問い直す』 第64号(2011年6月))

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